感覚のキャッチボール

文章を読むときに、

正直、そこに何が書いてあるかは、あまり重要と思っていなくて、

 

その人が、それを発信することでどうなりたいと思っているか、

そのことを感覚的に受け取ろうとしています。

 

特定の誰かに何かを伝えたいのか。

ただの愚痴なのか。

自己顕示欲を満たしたいのか。

目的のないメモなのか。

 

言葉に代わるものがあるとすれば、

その感覚と感覚の交換なのではないかと思っています。

ビジネス

ただただ、純粋にいいものを届けたいと始めたことなのに、

足を引っ張られるような気持ちです。

 

「ビジネスは潰し合い」

確かにそういう一面はあることは容認しながらも、

単純なパイの取り合いではないのだと思う。

お互いのストロングや付加価値を生かして、互いに成長し、高め合っていく、

それが新しい形のローカルビジネスなのではないのかと。

 

ビジネスでも、コーヒーでも、

純粋な気持ちを持っていても、

大人の事情で、潰されていってしまう。

そんなことが多く、残念に思います。

説得してみろ、と言われたら

「君たちの言っていることは非合理的で、正しくない。合理的に"説得"してみろ。」

と、言葉を武器に籠城されることがある。

 

ならば、こう答えてみる。

「別に貴方を説得しようなんて思っていないし、できるとも思っていません。

ですので、私たちに"共感"してもらえるように話してもらえませんか?」

 

"正しい"かはわかりませんが、

こっちの方が、"大事"なことだと思う。

できないこと、からはじめる。

カプチーノセミナーに行ってきた。

 

最初に説明を受けて、次は、一人一人順番に実技をしていく。

 

そのうち、自分の出番がやってくる。

はじめてとは思えない、綺麗なフォームとラテアートが描きあがって、

講師も驚き、他の参加者からも歓声が沸き起こって、誇らしい気分。

 

…。

実際にはそうはならない、

誰よりも緊張して、何をやっているか分からず、出来上がったのは液体の溢れたぐしゃぐしゃのカプチーノ

 

自分の出来なさ加減に、涙が出そうになる。なんでなんだろうと、肩をガックシ落とす。

 

それと同時に思い出す、

あぁ、そういえば、自分は不器用だったのだと。

同時に複数のことをこなせないし、頭の回転も悪い。

体も人と同じ動作を出来ず、頭でっかちになってしまう。

 

時々忘れそうになり、また思い出し、

「あぁ、そうだよな」と開き直る。

 

自分に残された道は、人の倍やるしかないのだと。

たくさん恥をかいて、絶望しながら続けて、続けて、

とにかく出来なくても、文句も言わず、そこに居続ける。(しかない)

 

不器用でよかった、

と強がりながら、低い自己評価と勇気を携えていくしかない。

 

 

自分の時間を生きる。

ある写真展に行って、

書かれた言葉が、印象的でした。

 

「人は"自分"の幸せのために生きている」

 

僕はそうは思わないのです。

 

だからと言って、他人のために生きているというわけでもないのですが。

 

地球があって、自然があって、

そこにたまたま、生まれてしまって、

生きているから、生きている。

 

だから、満たされない自分がいることは、とても普通なことなのだと思うし、

そんなにジタバタもしないです。

 

ただ、自然であっても、

自分の意思で、自分の時間を生きていきたい。

 

時々、雑音や毒のようなものが存在します。

自分を満たすために、たくさんの自然や人を手段にしてしまうような人。

(仮に、"時間泥棒"と呼ぶことにします。)

そういう面倒な人とはなるべく関わらない方がいい。

面倒な人は面倒な人と付き合っていればいいんです。

 

ボクには時間がない。

自然の中で自分の時間を全うするように生きていきたい。

 

 

 

普通ではないこと。

なぜ、今ここで綴ろうとしているのかを考えてみて。

 

なんだか、こう思うんです。

平和で、みんなが楽しく、それなりに生きていってくれればいい。

世の中が優しくあってくれればいい。

 

それだけのことなのに、

なんだか、そんなことを思って日々生きている自分が、どうやら普通ではないことに気づいてきてしまって。

自分は頭がおかしいのだと、ようやく理解をし始めてしてしまって。

 

それでも、

いやいや、そんなことないよ。

と、言ってくれる人がどこかにいるんじゃないか。

或いは、何十年かして、どこかの誰かに届くこともあるんじゃないかと。

そんなことを思って、

勇気を持って、綴りたいと思います。